昭和五十七年八月六日 朝の御理解
御理解第二十五節 「信心は大きな信心がよい 迷い信心ではいかぬ 一心と定めい」
「大きな信心がよい」とこう言われる。しかも「一心と定めい」大きな信心にならせて頂きゃ、おかげも必ず私は、大きくなると思うですね。願いだけは大きいけれども、おかげがついていかないとするなら、ま、ちょっとおかしいです。私がやはり、おかげを段々頂いておるのは、神様の願いが段々わかってきた。いわゆる、神願です。神の願いがわかってきたから、その神様の願いに答えて神様の願いを、わが願いとするというところに段々、合楽でおかげを受けてきたにじゃないかと思います、大願の氏子に金光大神身代わりとおっしゃるような事も、ま、言える訳です。
私共の過去の信心というのは、結局、神様の願いなんかというのは考えた事も・・・ただ、自分の願いが成就さえすりゃよか。どうぞ商売が繁昌しますように、病気が治りますようにという、ね。これは私は、ま、それが普通一般でしょうけれども。大きな願い。商売大繁昌のおかげを頂かせて下さい。そして、たくさんのお供えをさして下さい。御用にも使うて下さい。いかにも一通り筋道がたっとるようですけども、大きな信心ではないと思う、ね。
神の願いをわが願いとする信心。だから、問題は、やはり各自各自おかげを受けて、そのおかげ。その信心が、段々育っていくに従って、おかげも大きくなっていくという事にならなければいけないと。昨日、一昨日でしたが、ここにお話しに見えた事もありますね。瀬戸美喜雄先生という、今度、記念祭には、先生に公演とお話しをお願いしてあるんですけども。先生からハガキが参りました。先だってから、信楽をお送りしておる。信楽の御礼のハガキの内容に、先生の血のにじむような御修行が、ダイヤモンドの輝きのような輝きを見せていた、という意味の事が内容に書いてございました。確かにそうですね。宝石にするならダイヤモンドの輝きのようなものを感じるんです。だから、なら本当に、そういう貴いものであり、いうなら、ま、希少価値というか、そういう、なら、御信心をお互い頂いておるのですから、そんなら、なら、皆さんもそういう信心を頂いておる自覚に立ってです。いわゆる、小さい信心から、いよいよ大きな信心。いうならば、神の願いに答えれれるような信心。
小倉の初代が、お道の信心を世界万国津々浦々に輝かしたいという大願を立てられた。教祖金光大神世界包みまわしの大願を、そういう先輩、または、教祖金光大神の願いであるところの世界包みまわしの出来るような、その大願に答え奉らせて頂くために、どうぞ合楽教会においては、海外布教を芯にした。為には、人材の育成、その手掛かり、又は、足掛かりが必要。これは、毎日の御祈念の中に真剣に私が、願う願いの一節なんです。金光大神世界包みまわしの大願。小倉の初代が、世界万国津々浦々にと願われた。そういう願いを受けてね。それに答えまつる信心をさして下さいと、いうのである。それが、ま、一口に言うと、神の願いを願いとしての神の願いを大坪総一郎の願いとして願っておるという事。それが成就する、しないは別として、そういう大願を真剣に願っておる。それに答えて下さるかのように合楽教会では、日勝り月勝り年勝りのおかげを受けておるのであります。だから、皆さんの願いというものが、ね。どうぞ、只、商売繁昌であるとか、只、小さい願い。してそこにおかげを頂いて、神様の間違いのなさがわかったら、その願いが、いよいよ大きく育っていくおかげを頂かなければいけない。
昨日、私は、ここ二、三日のうちに合楽教会におかげを頂かれて、合楽教会の信心を、ま、いうなら研究に見えた先生方のお手紙が、ございましたので、ただ、社交辞令とは思われない、本当にそう思うて帰られたであろうと、私も信じます、ね。けれども、それが、ちょっと、こう、はみ出したような受取方をする方達がありましてね。親先生の信心は、教祖金光大神の信心を越えておると、解かれた人があった訳ですよ。それを聞かしてもらってんのう、本当にそれこそ、冗談じゃない。これは私が、いくら、なら、これは、ま、事実そうなんです、けれども、いかに、信心が一遍には進みません。皆さんでも、そうですよ。自分の信心が小さいなぁと、言われたから、はぁ、今日、お話しを頂いたけん、親先生のような祈りを、私がしょうと言うたって、駄目です、ね。少しづつでも大きくなって行くという内容じゃなからなければ、駄目なんですけれども。私の信心が、より本当な事へ移って参りますと、もう、教祖金光大神は、もう、向うもの方へ行っておられると、いつも感じなんです。これがギリギリの信心だろかと、こう思うて、そこんところが体得出来ると、もう、金光大神の信心は、そこの向うを行っておられると、言うのですから。も、限りがない。金光大神という方は、もう、ま、言うならば、後にも先にも、こういう方は、まずはないのです。その金光大神の信心を、合楽の親先生の信心は、越えておると聞くと、私の方が、もう、慌てるんです。
久留米の石田先生なんかは、そういう意味で非常に様々な宗教の研究をしておられますから。昨日、その三本の手紙を先生に読んでみて下さい。この先生方は合楽を、かく見ておられる。その内容を、ま、読んで頂いて、先生は、どう感じられるだろうかと、思いまして、昨日、手紙を読んでもらう事に致しました。その御返事は、頂いておりませんけれどもです。私は、そういう事が。昨日、二、三日そのひっかかりましてね。例えば、ある先生の場合なんかは、生神金光大神が大坪総一郎、その人に、ま、乗り移っての合楽の御ヒレイであるとか。または、金光大神の信心を今に現す、現代に現す、て、おられるのが、合楽の信心である。とか、と、言う風に、ま、各先生が、そういう風に合楽を評価しておられますね。私も、そうだと思いますけれどもね。事、なら、金光大神と私の信心と言うものが、何か、こう、比較対象されるような事になったら、大変な御無礼な事であると、こう思いましてね。昨日、その事をしきりに思っておりましたら、神様から、も、素晴らしい花台がね。あの原木で作ってあるのがありましょう。それが、もう、素晴らしいのがありますよね。例えば、私の場合は、その原木、そのものが素晴らしいから、それを、ま、いろいろに刻んだり切ったりして、ま、見事な花台を作っておるようなもんだと、言う事を頂いたんです。問題は、その原木、そのものが素晴らしい。もう、後にも先にもない。こういう原木はまたとない。天地金乃神様が、お前のような者はもう見た事がないと、言われるほどしの、ま、言うならば、御信用を受けられたのが、教祖金光大神、その原木そのものが素晴らしい。ところが、その原木が、どんなに素晴らしい素晴らしいと言うとるだけでは、ね。ひとっつも素晴らしい事を発揮する事が出来ない。現す事が出来ない。言うなら金光教が、名教だと、言うておるだけでは、なら、名教の実をあげていかなければ嘘である。それを、なら、合楽の場合には、それを、ま、切って、きれいな花台をね、自然の花台がありましょう、ね。下には、何かで出来た。そういう花台を合楽では作っておるようなもんだと頂いて、なら、私の心の中に、そうだと、こう、私は思いました、ね。問題は、教祖金光大神の原木、そのものが素晴らしい、ね。それを、なら、いろんな細工したり、ね。それを研き上げたりして、花台を作っておるようなものである。だから、そういう、言うなら間違いのない教えを、皆さんは、日々頂いておられるのだあるから、本当に、場合には、金光大神の信心を越えたような感じの御理解を頂くですね。例えば、昨日の御理解を一つの例に取りましても、そうです。信心しとれば心がけとかなきゃいけないぞと、年寄りを大切にしなきゃいけないぞと、年寄りは一年でもこの世に早く出て来て、世のためになっとるとじゃから大事に尊ばなきゃいけないぞ、と教えられるだけだったら、これは普通、道徳的な表現と変わらないでしょう。ところが合楽では、その、御教えにですね。その年寄りを大事にせねばならんから、大事にするのじゃなくて、大事にせずにはおられないと言う、根本のところを説くでしょうが、いつも、ね。だから、教祖の御教えを越えたような感じがするわけですね。けども、原木そのものが、やはり昨日、頂いたあの御理解、ね。御理解八十八節でもそうです。娘が嫁に行く時、鏡を、持たしてやって、悪い顔を人に見せんようにして家を治めよ、という風に教祖は、説いておられるんです、ね。だから、人に悪い顔を見せんだけでは、いけんて。本当の意味で教えの鏡を前に立てたら、自分自身がわかってくる。悪い顔どころではない。それに御礼を言わねばならんというような表現で、合楽では説くでしょう。だから今まで、かって聞いた事のない、言うならば、出来上がった、その花台というものが、いよいよ素晴らしいものに。例えば、その原木がね、ぼくぼくするようなものであったり、ね。研いても光が出ないようなものであったら、つまらん。原木、そのものが素晴らしいのです。それを合楽では、深く広くまたは、それを、ね。現代にマッチしたというかね。というふうに、ある先生は言っておられるように、金光大神の信心を現代に現す、しておるのが合楽だというふうに、ね。ですから、ですから。それをね。皆さんが、そんなら、頂いておるのですけれども、皆さんの信心が育たなかったら、こんなつまらない話は、なかですばい。どげなよか、言うならば、栄養になるものを食べておってもね、ひとっつも血に肉になってかないとするなら、ね。お互いの信心が、「ハァー自分の信心は、小さいなあ」と思たら、どういうふうな信心すれば大きくなるか。なら、大きい事を願うだけか、だけじゃいかんのです。言うたり願うたりするだけなら、誰でも出来る、ね。天下国家の事でも祈るだけなら祈られる。けどもそれが、祈らずにおれないと言うという信心になる時に年よりを大切にせよ、と言われたから大切にするじゃなくて、せずにおれないと言うものを頂いて初めてです。、ね。大きな信心に育っていくという事が言えますね。ね。だから、お互いの信心をいつも、ね。言うならば、いろんな角度から、ね。段々、百円のお供えが出来よったもが、千円のお供えが出来るようになり、千円のお供えが出来よった人が、一万円のお供えが出来るようになると言うように、その形に現れてくるものもです。そして、その信心に伴のうて来なければだめなんです、ね。祈りも着実に、言うならば、その事が祈らずにおれないという信心に、ただ、ね。どうぞ、世界万国津々浦々の事まで、毎日お願いしよる、祈りよるというだけなら、誰でん出来る、ね。内容がそこまで育っていかなければ出来ん。それをなら、絶対の教えというか、間違いのない教祖金光大神が、乗り移ってござるかのように、しかもそれが、現代ふうに説かれておるのが合楽の信心である。それこそ、ね。その教えの一つ一つがダイヤモンドの輝きのようなものを、である事を私共がわからせて頂いて、本当にダイヤモンドの輝きような、言うならば、ヒレイをね。私共の身にも家にも現わしていける為に、いよいよ信心の本気でのお育てを願い頂かなければならんというふうに思います、ね。ただ、信心を、ね。続けておるというだけじゃなくて、いわゆる信心のお育てというか、ね。の、頂けれる構えを作って、いよいよ自分の信心が、ね。いつの間にこういう、言うならば、神の願いを願いとして、神の願いをわが願いとして願えれるような信心を、ね。頂く、そういう願いを、もう、という事が、大きな信心をめざすという事じゃないでしょうかね。 どうぞ